三十年戦争はハプスブルク朝オーストリアの圧制に抵抗するチェコの反乱をきっかけとして始まった。旧教(カトリック)派は1609年に軍事同盟を結成し、チェコに侵入した。旧教派に参加したのはドイツの旧教国とオーストリア、そしてスペインである。ローマ皇帝もこれを支持した。戦争の初期、チェコはいくつもの勝利を修め、武力によってウィーン周辺の一部を陥れることにさえ成功した。ところが、旧教派も何とかその兵力を建て直し、敵に壊滅的な打撃を与えた。1620年、チェコ軍は白山の戦いで撃破された。これらの一連の出来事は新教(プロテスタント)を信仰するヨーロッパ諸国に介入の機会を与えた。1625年、イギリス、オランダ、デンマークが旧教派への抵抗に加わった。オーストリアとスペインを統治するハプスブルク王朝に古くから敵愾心を抱いていたフランスは新教派に豊富な軍資金を援助した。戦争はヨーロッパのほとんどを巻き込むまでに広がった。旧教派はデンマーク軍を大敗に追いやった。イギリスとオランダの軍隊は規模が小さく、統制も十分に取れていなかったため、旧教派の軍隊の進行を押し留めることができなかった。フランスは侵略の脅威にさらされた。狡猾な宰相リシュリューはこの惨事を回避する手段を思いついた。1630年、スウェーデン王グスタフ・アドルフと同盟を結んだのだ。リシュリューは「自由ドイツの復興」という名目のもとに年間100万ルーブルの資金援助を引き受けた。1630年、グスタフ・アドルフの率いる軍は全面攻撃に踏み切った。1631年初めには、ポメラニア全体を陥れた。同年9月、スウェーデン軍はライプツィヒ(ブライテンフェルト)の戦いで輝かしい勝利を得、北ドイツ全体がスウェーデンの手に落ちた。1632年11月、スウェーデン軍はリュッツェンの戦いで旧教派の軍隊を壊滅させた。しかし、それは大きな犠牲を払って得た勝利だった。名君と歌われ、司令官として軍隊を指揮し、数々の軍事改革を遂行したスウェーデン王グスタフ・アドルフが戦死してしまったのだ。求心力を失ったスウェーデン軍は混乱した。1634年8月、スウェーデン軍はネルトリンゲンの戦いで敗北した。このような状況になっては、フランスにはオーストリアを相手に参戦する以外、選べる道はなかった。オランダ、マントヴァ、サヴォイ、ベニスはフランスを支持した。最初、フランス軍は祖国を侵略からひたすら守ることを余儀なくされたが、次第に力を強め、戦場は敵陣内へと移行して行った。1643年5月、フランス軍はロックロイの戦いでスペイン軍を打ち破った。そして1648年、三十年戦争はオーストリアとその同盟国に大きな被害をもたらす形で終結した。 |