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イギリス市民革命

ダンバーの戦い

スコットランドの王党派は封建法の復活を目指して軍勢を結集し、ロンドンに対抗する作戦の準備を進めていた。レスリー率いるスコットランド軍は歩兵18,000名、騎兵8,000を数えた。その構成員は新兵が多数を占めており、軍の指揮者は十分な結束をはかることができなかった。1650年5月26日、クロムウェルはスコットランドでの作戦に派遣される軍の司令官に任じられた。彼の補佐としてフリートウッド将軍が歩兵を指揮し、ランバートが騎兵の指揮にあたった。軍は古参兵で構成され、歩兵10,500、騎兵5,500を擁した。1650年7月22日、クロムウェルの軍はスコットランドの国境を越えてエジンバラへと向かった。レスリーは戦うことを避け、敵を消耗させる作戦に出た。荒涼とした風土と補給の不足はイギリス兵の間に病気を蔓延させた。軍の士気は減退していった。クロムウェルは騎兵を使って敵の側面に攻撃を仕掛けることが可能な開かれた土地に敵を誘い込もうとした。だが、これらの試みはことごとくレスリーによって挫かれ、スコットランド軍の側面に回り込むことはできなかった。士官の中には、クロムウェルに軍勢を撤退させて、この作戦を終了させるべきだと進言するものも出始めた。しかし、指揮官はそれなりの成果を達成しようと望んでいた。レスリーはクロムウェルの軍をイギリスから切り離して、側面から攻撃することに決めた。スコットランド軍はダンバーを通り抜け、南部の高所に陣を占めた。イギリス軍のバーヴィックへの脱出経路はこのためスコットランド軍に絶たれてしまった。クロムウェルは次のように記している。「我々は極めて困難な状況にある。敵に閉じ込められてしまったのだ・・・そして我々がここから抜け出せる可能性は奇跡に頼るほかをおいてない。」9月3日午前4時。風が霧を晴らし、月がクロムウェルの歩兵と騎兵の左側面の頭上に輝くと、彼の軍は敵に攻撃を仕掛けた。敵はイギリス軍がこのような攻撃的行動に出ることをまるで予想していなかった。スコットランド軍勢はかろうじて戦闘隊形を形成し、第一陣の攻撃に反撃した。クロムウェルは砲兵隊に敵の戦闘陣形の左翼に砲撃することを命じ、右側面の騎兵に突進して左翼の支援に回ることを命じた。次に彼は3つの騎兵連隊の指揮を取り、敵に攻撃を仕掛けた。スコットランドの戦闘陣形は圧倒され、統制の取れた抵抗を示すことは不可能となった。午前5時30分、レスリーの軍勢は浮き足立ち、パニックにかられて逃走を始めた。