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ロシア・トルコ戦争 (1787-1792)

リムニクの戦い

この戦争の中心的な衝突はイズマイル付近で起こると予想されていた。トルコ軍はそこに大型兵力を示威的に移動した。このトリックにまんまと騙され、総司令官ポチョムキンはロシア軍の兵力をイズマルクに集中させた。これこそまさにトルコ軍が待っていたことだ。ユサフ・パシャが指揮する100,000のトルコ軍はオーストリア軍を打破した後、ロシア軍に攻撃を仕掛ける準備をしていた。オーストリアの部隊はコーブルク王子が指揮した。王子はトルコ軍が王子の有する18,000の兵士と戦うために100,000の兵士を進軍させる計画だということを偵察兵から教えられると、急いでサハロフ将軍に特使を派遣し、支援を要請した。将軍によって兵力7,000から8,000のロシア軍部隊が同盟国を助けるために駆けつけた。サハロフはいくつかの段階に分けて敵を攻撃することに決めた。まずロシア軍がチュルグ・ククリーの陣地を攻撃してその場所を奪取する。その間オーストリア軍はクリュング・メイラーの森に向かって移動する。次にオーストリ軍とロシア軍は合同してクリュング・メイラーの敵に攻撃を仕掛ける。最後に、合流した部隊はマルティネスティに進軍する。トルコ軍は第1の野営地におよそ12,000の兵力、第2の野営地に40,000の兵力を持っていた。敵はオーストリア軍の前線全体を圧迫しており、オーストリア軍は浮足立つ寸前まで来ていた。同盟軍は兵力を結集し、トルコ軍の前進を阻み、その防御施設の後ろに押し込めることに成功した。騎兵はトルコ軍の大砲や銃が砲撃を浴びせる地帯を短時間のうちに走り抜け、敵の野営地に乱入した。この行動にどぎもを抜かれたトルコ軍はひるんだあまり、歩兵に向けて発砲することを怠った。その時、歩兵はすでに外堀を渡って、騎兵を支援しようと駆けつけていた。トルコ軍は動揺し、逃走を始めた。トルコ軍の損失は死者10,000に上った。同盟軍の損失は死者と負傷者の合計で1,000だった。数日かかって、ユサフ・パシャは自軍の残存兵力をかき集めた。かつて100,000を誇った兵力はいまやわずか15,000に過ぎなかった。