戦術 - 歩兵
17世紀、歩兵隊は甲冑に身を固め槍で戦う槍兵とマスケット銃を装備した銃兵で構成されていました。
戦闘隊形は縦深が6列が基本でした。マスケット銃兵は側面に位置し、接近戦で敵に攻撃された際にはパイク兵(槍兵)よって守られました。行進ではパイク兵が先頭になり、整列の際は一列目のパイク兵は槍を左手に持ち、刀を右手に持って待機しました。その後、小火器の発達によりパイク兵の影が薄くなり、マスケット銃兵の比重が大きくなりました。小火器の出現は戦術面において画期的な出来事でした。マスケット銃は騎士の鎧を貫くのに十分な力を持っていましたし、200歩よりも遠くから照準を定めることができました。射撃間隔が長いため、縦深の隊形をとっていました。マスケット銃兵は射撃すると装填するために列の後ろに回りこみました。このような戦法はカタツムリの歩みに似ている事から、カラコルと呼ばれました。初期は射撃間隔が長かったため12縦列の隊列を組んでいましたが、銃の改良により、射撃間隔が短くなり6縦列になりました。グスタフ・アドルフの軍制改革ではマスケット銃が改良され軽量になり、銃架で銃身を支えて射撃する必要がなくなりました。また紙薬莢の発明により銃の射撃間隔が短くなり、それにより隊列の縦列も短くなりました。その後フリントロック式銃の発明や銃剣の導入によりパイク兵は姿を消していきました。 銃剣は1640年頃フランスで発明され、その後多くの改良が加えられ軍に取り入れられました。1670年にはフリントロックが開発され、フリントロック式銃は軍の主要兵器となり、パイクは撤廃されます。これらの変化はスペイン継承戦争の最初の年に起こりました。18世紀初頭、歩兵は統一されたユニフォームを着たマスケット銃兵とてき弾兵で構成されるようになります。スペイン継承戦争の時、レオポルト王子は歩兵隊の隊列を縦深4列から3列に変更しました。彼が鉄製のラムロッドを採用し、銃の射撃間隔を短くすることができたためです。同じ頃プロシアの歩兵隊にも変化がありました。彼らは前進しながらの射撃を教え込まれました(初期の時代は射撃は止まったままで行われました)。射撃は180mの距離から行われ、敵に近づくほど前進の歩幅を狭め、銃を何度も早く発射しました。射撃は敵の戦意を挫くため、大隊、小隊で一斉に行われました。小隊では敵の騎兵の突撃を防ぐため、短い間隔で一斉射撃が行われました。敵に接近した際には銃剣を構えて敵に突撃しました。歩兵の攻撃は通常、野戦砲の砲撃前に行われました。1,000人の歩兵に3門の大砲を配 置するのが普通でした。また軽歩兵は敵をかく乱するゲリラ戦でも活躍しました。 |
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